<昭和55年6月4日水曜日 日本工業新聞>
電子を刷る② ニューロング精密工業
ニューロング精密工業(以下ニューロング精密)の歩みは、日本のスクリーン印刷機の歩みでもある。
〝スクリーン印刷機の開拓者--〟それが、自他ともに認めるニューロング精密の素顔なのだ。
そしてまた、その素顔は、幼い頃から機械技術に魅せられてその道を歩み続けた一人の男・井上貴靖が、十五年の歳月をかけて描きあげた作品にほかならない。
もし、井上という男がいなければ、他の誰かが、スクリーン印刷機の開拓者の位置を占めていたかもしれない。しかし、井上が、その任を果たしてきた。
その意味では、ニューロング精密と日本のスクリーン印刷機の歴史は、井上の半生の歴史に重ねられるべきもの、ということができる。
それは、昭和三十八年、春五月のことであった。
東京・浜松町の海よりにある都立工業奨励館の工業技術振興センターに、一台のスクリーン印刷機がアメリカから送られてきた。ある一日、井上は、到着したばかりのその新しい機械を見るチャンスに恵まれた。何か、ピンと心の琴線に響くものがあった。
戦後間もない昭和二十三年、工業用ミシンの部品づくりを手がかりに独立して以来、井上は、各種治工具類を中心にして常に新しい分野への挑戦を試み続けていた。いつも何か次の展開を求めてやまない井上の心が、スクリーン印刷機との出会いでかすかに共鳴音を発していたのである。
人と人との出会い、あるいは人と技術の出会い。いずれの場合も、神の配剤かと思えるような一面がある。出合っていながらすれ違ってしまう場合があるかと思うと、神の啓示のような息の合っためぐり合いもある。井上とスクリーン印刷との出合いは、そうした思いを改めて思い出させてくれる。
-、-、-、-、-、-、
その年の夏、このめぐり合いは、具体的な形になって井上の前に姿を現した。
ある日、神奈川県立工業学校の同窓生である頼(らい)哲夫が井上を訪ねてきた。ほとんど同年代の二人は、古くから友人づきあいをしていた。頼も山崎精機という会社を経営していて、井上のすぐ近くの戸越に工場を持っていた。
「東洋インキの橋本さんという人からスクリーン印刷機をやってみないかという話がきているんだが…」
頼が単刀直入に切りだした。
「ほう」
井上も、すぐに興味をおぼえて身をのりだした。
頼の話は、かなり具体的だった。東洋インキからの情報を中心にして、スクリーン印刷技術の将来性に及び、アメリカの印刷業界はスクリーン印刷時代に入っていると話を進める。
井上の頭の中に、工業奨励館で見たスクリーン印刷機が鮮やかに甦ってきた。
いかにもアメリカらしい大がかりな機械であった。ゴツイというのが第一印象で、これがアメリカスタイルなんだな、とそのとき、井上は思ったものである。
井上の心の中を読みとおしたように頼は続けた。
「アメリカの機械を半分ぐらいに軽量化して日本人の器用さにフィットするように改良すればきっとうけると思うんだ」
「うん、オレもそう思っていた」
「設計図は私が書く。問題は技術と工場だが、自分の工場だけではどうしてもできない。ひとつ井上さんに助けていただきたいんだが…」
「わかった。おもしろい話だ。やってみようじゃないですか」
井上は、即座に答えていた。
その背に「おやじさん、なにかウチ独特な製品を作りたいですね」という現場の声が聞こえてきた。
ニューロング精密の新しい第一歩だった。
(敬称略)
<文・道田 国雄>
昭和55年6月3日~16日まで、2週間にわたって日本工業新聞(現:FujiSankei Business i.)に掲載された記事を、許可を得て転載しています。