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国産スクリーン印刷機誕生秘話3

<昭和55年6月5日木曜日 日本工業新聞>

電子を刷る③ ニューロング精密工業

昭和三十九年春。

ニューロング精密は、平面スクリーン印刷機TN-二型の一号機を日本の市場に初めて送りだした。アメリカ送りのその技術に接してからまだ一年の月日しか経っていない、四月三十日のことである。

一号機は二台。一台は名古屋の遠山工芸に、他の一台は大阪の山下マークという会社に納入された。

「普通は、一号機といえば一台というのが常識でしょうが、私たちは最初から二台併行で開発を進めたのです。試作につぐ試作の繰りかえしでしたが、思った以上の仕上がりでしてね。一号機は、全社員の情熱と努力が生みだした双生児だったのです」(井上社長)

前回に、井上がいみじくも語っていたように、社内にも〝独自技術〟への要望の機が熟していた。ミシン部品から治工具類へと手を広げ、社員の数も四十人を超えていた。スクリーン印刷技術は、その熱い社員の輪の中にスッポリと落ち、またたく間に実を結んだ。

そうした熱気を肌で受けとめながら、井上は、自らは決して熱くなることなく、確実・冷静にその足元を見つめていた。

「人を増やさずに小じんまりといこう。増やしても五十人を限度にし、少数精鋭主導の企業体質を作ろう」

この決心である。

守りの堅実姿勢というのではない。単なる拡大願望の誘惑を拒否しようとする基本姿勢が生んだ必然の方針といえた。

このとき、多くの情報がスクリーン印刷技術の将来性を予測させていた。紙以外のものに印刷ができるこの技術は、将来、成型品から金属、ガラスなどの分野に広く導入されるであろうと予測させた。事実、その後、スクリーン印刷は、樹脂製品関係を中心に応用範囲をどんどん広げて、日本経済の拡大発展と歩を合わせるように成長していっている。
昭和55年6月5日木曜日 日本工業新聞
井上の心中を推し測れば、そうした予測は新しい分野の進出に、強力な支えと映ったはずだ。だからこそ井上は、自らの足場を固めつつ確実にこの技術を自社の中に取り込んでいこうという考え方を選択したのであろう。

しっかりとした方針のもとに、着実かつ積極的に取り組んでいこうとする井上の経営姿勢を見る。事実、その後の井上の行動は、常に積極と迅速に展開されている。

四十一年の秋には、アメリカへ第一回の視察旅行に出かけている。スクリーン印刷協会の世界会議とその関連展示会に、日本の業界視察団の一員として参加したのだが、この視察の経験を得て、井上は、ニューロング精密をスクリーン印刷機主導の専門メーカーへと急速展開させていく。

少しばかりの予備知識はあったものの、実際に自分の目で見て井上は、アメリカ業界規模の大きさに改めて驚かされた。ポスター印刷のためのとてつもなく大きなマシンがある。オープンに、友好的に見せてもらうことができたどの工場も、そのスケールにおいて井上の想像をはるかに超えていた。

「日本はこの分野の後進国でしたから、向こうもすべてオープンにして見せてくれたのが大変ありがたかったですね。いろんな分野で応用されている様子をつぶさに見て、大いに勉強させて戴きました。ラスベガスのカジノでは、ゲーム用マットの印刷にまで使われていました。なんと応用分野が広いのか、というのが素直な印象でしたね」

日本に帰ると井上は、その体験をもとに自社の将来方針を検討し、市場の将来動向を分析してスクリーン印刷主導で行く方針を決定する。昭和四十一年度のスタートに当たって、井上は、この新方針を全社に宣言。そして創生期から続いたミシン分野に心からの別れを告げた。この分野に立ち入ってから、わずか二年後。素早い転換であった。

(敬称略)
<文・道田 国雄>

昭和55年6月3日~16日まで、2週間にわたって日本工業新聞(現:FujiSankei Business i.)に掲載された記事を、許可を得て転載しています。
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