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国産スクリーン印刷機誕生秘話5

<昭和55年6月9日月曜日 日本工業新聞>

電子を刷る⑤ ニューロング精密工業

昭和十年代に入ってから、日本は、あの長い戦争の時代に向かって傾斜を早めていく。井上の前に兵隊検査が待っていた。

丙種合格。工業高校に入学すると同時に剣道を始めていた井上、体格は人に負けない立派な成長をしていた。にもかかわらず丙種になったのは、前にもふれた曲がったままの左腕が原因だった。

「寄宿舎生活の時代が軍隊生活だったといえるでしょうか。人間万事塞翁が馬ですよ」
達観して井上がいうのだが、丙種合格になったことで井上は、一度も軍隊にとられることなく日本の敗戦の日を迎える。

「運が良かった」と井上はいう。実際、人生というものは何が幸いするかわからない。ほんらいならハンディになってもおかしくない傷が、結果的に救いの神になる。

この一件だけでなく、井上は、その人生の中でなかなかの強運ぶりを見せている。戦場に行かなかったばかりでなく、戦災にもいち度もあっていない。

空襲が激しくなりだした頃、井上は、当時住んでいた横浜・子安台から静岡県下の吉原に居を移している。日産では、俗に赤トンボと呼ばれた練習機を作っていた。井上は、赤トンボに搭載する100馬力エンジン開発の指導責任者をしていたのだが、エンジンが完成するとともに、その工場を帝人の吉原工場の跡地に分離移転させた。それと同時に井上も転勤になったのである。

吉原に移った頃から、戦況は一段と厳しくなった。日産吉原工場にも学徒動員、女子挺身隊が送られてくるようになり、井上は、工場設備のできあがるまでの間、これら従業員の教育に取り組まされていた。
昭和55年6月9日月曜日 日本工業新聞
「それまでも、自分の強運を思ったことが何度かありました。そのなかで、いちばん印象に残っているのが大正十二年の関東大震災ですね。目の前で風向きが変わり、被災からまぬがれたのです」(井上)

その頃、井上は東京・台東区の上根岸二丁目に居を構えていた。

普通なら「なんと運の悪い」ということになるところだが、井上の話のように延焼をまぬがれたのだから強運の印象がよけいに強いのもうなづける。加えて鶯谷一帯は、東京の中でも地盤のしっかりとした所で、地震による直接的な被害もほとんどなかったという。

こうして、いちども災害にあわずにたまった家具家財は、戦後の独立の時の資金の一部として役立ったというのだから、話としてもますます面白くなる。

昭和二十三年、独立の決意を固めた井上は、余分な家財道具を思い切りよく処分してしまった。戦後間もなくのことだったので買い手はたくさんいた。大きなトラック二台分にもなろうかという量だったから、独立資金の一部にして十分に役立つ額になった。

資金の問題のほかに、この行動は、井上の固い決意を表明していた。

「身を軽くして思い切りブチ当たりたい」

この決意である。

独立することについては、家族の者に何も相談せずに決めた。相談しても相手が困るだけだということを知っていたからだ。だから決断したあと、「一緒に苦労してくれ」

と奥さんにいった。

「お父さんがよいと思うのでしたら、私たちは何もいうことありません」

奥さんも短い返事をしただけだった。

いかにも地道に技術者の道をコツコツと歩き続けてきた井上らしい決断である。

「ベストさえ尽くせば道は開ける」

それがサラリーマンとして生きてきた日々の中で育てられた井上の信念であった。

(敬称略)
<文・道田 国雄>

昭和55年6月3日~16日まで、2週間にわたって日本工業新聞(現:FujiSankei Business i.)に掲載された記事を、許可を得て転載しています。
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