ニューロング精密工業はスクリーン印刷機の製造販売を行っています。スクリーン印刷法を中心に、より良い開発・研究・製造装置を供給いたします。

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スクリーン印刷への扉

~国産スクリーン印刷機誕生秘話~

<昭和55年6月12日木曜日 日本工業新聞>

電子を刷る⑧ ニューロング精密工業

朝鮮戦争による特需景気が、戦後の日本経済のボトムアップに大きな役割を果たした事実は多くの場所で語られている。

その範囲は、文字どおりあらゆる産業分野に及んだ。たとえば、工業用ミシンの分野ではこんなかかわり方をしている。需要拡大の一つの要素は、戦場で使う土嚢用の麻袋の製縫であった。海外から食品その他の袋として日本に入ってきたものを土嚢用に縫いかえるために大量のミシンが必要だったのである。

こうした時代に、うまく商売がえした自分はやはり好運だったと井上は思う。工場新設直後の三十五年十月、個人企業の時代をそうそうに脱して法人化し、ニューロング精密の設立に向かうことができたのも、一つには、時の利を得たという事実に負うところが少なくないというわけだ。

とはいえ、ミシン部品の製造は、物が小さく、精度を要求する割には一点単価も低く、朝鮮特需の時代でさえ、ようやく企業を維持していくという範囲をでることがなかった。そこに、井上をして独自製品の保持へと向かわせた最大の原因があるのだが、スクリーン印刷機という念願の新製品を手に入れた現在では、「それまでの十五年間は、技術力の向上と社員養成のための期間だった」といえる余裕になっているのが面白い。

スクリーン印刷機主導に切り替えた翌年の昭和四十二年度、ニューロング精密は、年間売上高を一億円の大台に乗せる。一号機以来評判が高く、すぐに月産二、三台の注文に結びついたのがその背景であった。

以後、オイル・ショックの突発した四十八年度までの七年間、売上高は順調に伸びて、四十八年には、すぐそこが六億円というスケールに達するまでに成長する。

昭和55年6月12日木曜日 日本工業新聞

この成長ピーク時、井上は「こんな調子で売上高が伸びていったら大変だな」とまで思ったものだ。どんどん仮需要がでてくる。常に半年以上も先の需要をかかえてフル生産に当たるという状況だったというから、この井上の思いも当然というものであろう。

四十四年には、都下狛江市に狛江工場を新設している。相次ぐ注文の殺到に、本社工場の組み立てスペースが完全に手狭になってしまっていた。そんな折、二九〇平方メートル(九十坪)の平屋建ての工場一棟を競売で手に入れた。経営不振に陥ったラジオ・オーディオ関係の組み立て工場が抵当流れになったものだった。世の厳しい移り変わりを映しだす歴史の一コマといったところである。

技術力、生産設備体制が整うにつれて、新製品の開発も急ピッチで進んだ。四十一年には、現在、トップ・セラーになっているLS-45Aが送り出されている。このタイプの機械は、同じ年に前後して開発されたLS-102A、60Aとともに、わが国の量産型スクリーン印刷時代を開く中心になったマシンである。量産時代は、四十三年に誕生したLS-30A、7ANによって不動のものになっていくのだが、45A、30A、7ANは、今日、ニューロング精密のベスト3商品としてなお強い力を誇っている。

いずれも安定した製品力を持つ柱で、最もスタンダード化に成功したマシンである。

7ANは、いわゆる小型平面スクリーン印刷機で、IC、セラミック印刷技術の新しい分野開拓の尖兵になった製品である。スクリーン印刷技術が、今日の最先端技術である電子工業技術の偉大な影武者としてその姿を現す契機だったというわけだ。

その後も、時代の変化に即応して新製品の開発が続いた。省力化時代を背景にして生まれた全自動印刷機、ユーザーニーズに合わせた特注製品まで、ニューロング精密の技術力は、いま、したたかな力の様を強く印象づけている。

(敬称略)
<文・道田 国雄>

昭和55年6月3日~16日まで、2週間にわたって日本工業新聞(現:FujiSankei Business i.)に掲載された記事を、許可を得て転載しています。


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