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スクリーン印刷への扉

~国産スクリーン印刷機誕生秘話~

<昭和55年6月11日水曜日 日本工業新聞>

電子を刷る⑦ ニューロング精密工業

ニューロング精密の前身となった井上機器製作所は、井上と父・英雄、それに日産時代の友人一人が加わって三人の小世帯でスタートした。

仕事の中心は輸入ミシンの部品をまねた工業用ミシンの部品の製造である。まだ輸入が認められていなかった時代、精密な部品づくりは容易なことではなかったが、それだけ作ることさえできれば需要はあった。

東京・蒲田の倉庫を改造した工場。その敷地の隅に三畳ばかりの小屋を建て、井上と英雄は泊り込みで仕事を続けた。わずか二十万円のかき集め資金でスタートした事業、工場を離れている時間がない。徹夜も続いた。三十分ばかりの自宅から、登志子夫人が運んでくる昼の弁当が、最高の慰めという生活。

脱サラ、独立ということが、いやに容易でないかをいやおうなく思い知らされた。

独立して半年ぐらいの間は、研究期間ともいうべき時間で、ごくありふれた機械や借り物の設備で仕事を進めた。だんどりに時間がかかり生産効率はいっこうにあがらない。

そのうち、当然のことのように資金がショートする。家財道具を売るなどして用意した資金に余裕のあるはずがない。親類、縁者、知人の間を駆けまわって金を借りた。それまでの人生の中で、金の苦労は初めてだった。

技術的にも時間が必要だった。試作を重ねても寸法、機能など意図どおりにはなかなかうまくいかない。かつて、三越本店の玄関の取手の装飾を手がけたことのある英雄にも、精密工業の世界の技術は、遠い存在といえた。

「メクラ同然のスタートでしたからね。法人にするまでの約三年間は、文字どおり苦労の連続でした」

と、井上は往時を思い出していう。

昭和55年6月11日水曜日 日本工業新聞

モノを作り出すことの喜び-それだけがすべての支えだったともいう。いわば、技術者の魂と根性が苦境を切り抜けさせる原動力だったのである。

「脱サラして事業を成功させるためには、トコトンその事業に惚れ、信念を持って最大限の努力をすることが最大の秘訣である」

一流証券の海外畑からファースト・フードのチェーン店づくりに成功した、モス・バーガー社長の桜田慧の言葉である。挑戦分野は異なるが、井上のそれに共通したコメントであることが興味深い。

それはともかく、連続する苦労と努力の中で井上は、常に経営者の目で物事を考え、見るという姿勢を貫いた。

モノの作り方、工程の組み方、時間管理の効率など、すべてが勉強だという思いが先に立った。サラリーマン時代にはなかった視点である。必要がなかったといったほうが、より正確かもしれないが、独立の大きな夢が、ごく自然に、井上の中に経営者の感覚を取り込ませていた。地道な一日一日の積み重ねの中で、一条の光明がみえはじめた。出発丸二年目の昭和二十五年秋・九月、蒲田の倉庫跡を出て、現在の本社工場近くに新しい工場を建設する機会が巡ってきていた。

たまたま火災に遭って焼けた跡地が売りに出ている、と隣人が話を持ってきた。四六二平方メートル(百四十坪)と広さも手ごろだし交通の便もいいというのがその人の推挙の言葉だった。

二年で多少の技術力もついていた。社員も十六人に増えており、一つの転機にあったこともあって、井上は、工場移転の決意を固めた。応援者である長ミシン商会の長も資金面で後押ししてくれたことも井上には心強かった。

「資本も出すから専門の下請けとしてもう少し頑張ってくれ」

そんな長の意向もあり、建坪一六五平方メートル(五十坪)の新しい城が完成したのである。

(敬称略)
<文・道田 国雄>

昭和55年6月3日~16日まで、2週間にわたって日本工業新聞(現:FujiSankei Business i.)に掲載された記事を、許可を得て転載しています。


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