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スクリーン印刷への扉

~国産スクリーン印刷機誕生秘話~

<昭和55年6月10日火曜日 日本工業新聞>

電子を刷る⑥ ニューロング精密工業

井上が、井上機器製作所を東京・蒲田で始めたのは、昭和二十三年十月のことである。

今日風にいえば〝脱サラ〟の第一歩ということになる。ここで、井上における脱サラの研究、を少しばかり試みる。

前にも見たように、井上の〝脱サラ〟志向は、生来のものである。「いつか独立して自前の工場を持つこと」は、幼い時からの予定された路線の一つであった。

問題は、いつ、どのような形でその予定を実現させるかである。

日産自動車という一つの会社に十二年ばかり勤めたという事実が一つの踏み台になった。昔から十年という区切りは、人生を測る一つの目安になる。

ちょうどその区切りの節目に〝敗戦〟という外的要因が重なった。井上のいた吉原の飛行機のエンジン工場は、戦後は、自動車のパーツ工場に変わっていた。新車生産はまだ始まっていなかったから、古い車を集めて整備していくのが仕事だった。

井上は、その中心になって働いていたのだが、井上の関心は、パーツ製造よりも、そこで使われる機械設備により向いた。機械屋としては当然の心の傾斜である。

その関心は、いつか、自分でそれを作ってみたいという気持ちに発展し、とにかく町工場でもいいから自分の工場を持ちたい、というふうに変化していった。

ここまで気持ちが変化してくると、脱サラは既定の事実のように内部で固定してくる。そして、ほんのちょっとした契機があれば、当然のこととして行動に移されていく。

一つの契機が、日産時代の知り合いの一人から持ち込まれた。昭和二十一年のある日、千葉で内外製鋼所という会社の工場長をしているその知人から声がかかった。

昭和55年6月10日火曜日 日本工業新聞

「戦後、いろいろやって見ているのだがどうしても思うようにいかないんです。ひとつ井上さんの技術力を生かして何かやってみてくれませんか…」

社宅の用意もあるという。独立するならやはり東京に出なければいかんな、と思いをつのらせていた井上には、心動かされる誘いである。いろんな思いが、井上の心の中を駆け巡る。

「よし、ここは一つのチャンスかも知れない。思い切って踏ん切りをつけよう」

井上は決断した。

住み慣れた場所を離れて、新しい環境に飛び込む不安が全くなかったわけではない。が、日産時代、労働組合の委員をした経験もあったので、むしろ現場の気持ちをつかんで思い切り仕事をしてみたいと発想を前向きに転換できたことが、井上を千葉に向けて旅立たせた。内外製鋼所で井上は、アルミ機を素材にしたライター、洋傘の骨組み、自動車用ピストンピン、ボルト・ネジなど細かく新しい仕事を開拓し、内外製鋼所の経営を軌道に乗せていった。

二年たったとき、もう一つの契機が訪れる。父・英雄が少しばかり歳が行き、仕事ができないまま家にいるようになった。何か家でできる仕事はないかとの考えから手内職としてミシンの部品づくりをするようになった。家の廊下の一部を仕事場にしたごく家庭的な工場だったが、その発注先のミシン工場から「本格的にミシン部品をやってみないか」と誘われたのである。

内外製鋼所に勤めながら設計図を書いて父親を助けていた井上は、この誘いに大いに心を動かされた。発注者の長ミシン商会社長の長勇三郎も熱心にすすめる。「仕事はまちがいなく出す」という長のひとことが井上の決断を早めた。

長は、現在もニューロング精密の役員として名をつらねている。ちなみにニューロングの社名は、この長の〝ロング〟に、新しい〝ニュー〟を冠して生まれたもの。長の存在は独立以後の井上に大きな影響を与えた。

(敬称略)
<文・道田 国雄>

昭和55年6月3日~16日まで、2週間にわたって日本工業新聞(現:FujiSankei Business i.)に掲載された記事を、許可を得て転載しています。


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